歴史の概要

富岡製糸場設立の目的とその背景
江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めます。その当時最大の輸出品は生糸でした。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる問題がおきました。イギリスやフランスから生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されるようになります。
巨大な工業生産力と軍事力を備えた欧米諸国は、国外市場や原料供給地を求め、競うようにアジアへの進出を本格化させていました。この外圧に対抗するために、明治政府は、強くて豊かな国づくりを目指します。外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。1870(明治3)年、明治政府は自国資本による官営模範器械製糸場(富岡製糸場)をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること。3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地にもどり、器械製糸の指導者とすることでした。こうした考え方をもとに、横浜で生糸検査人をしていたフランス人ポール・ブリュナを指導者として迎い入れます。
巨大な工業生産力と軍事力を備えた欧米諸国は、国外市場や原料供給地を求め、競うようにアジアへの進出を本格化させていました。この外圧に対抗するために、明治政府は、強くて豊かな国づくりを目指します。外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。1870(明治3)年、明治政府は自国資本による官営模範器械製糸場(富岡製糸場)をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること。3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地にもどり、器械製糸の指導者とすることでした。こうした考え方をもとに、横浜で生糸検査人をしていたフランス人ポール・ブリュナを指導者として迎い入れます。
施設紹介_歴史を学ぶ_1_1
設立の地に富岡が選ばれた理由
明治政府は、ポール・ブリュナに工場設立のための計画書を作成させます。作成前ブリュナは、横浜から遠くなく養蚕の盛んな、武州・上州・信州などを巡り、養蚕農家の仕事や、婦人の糸挽きの様子をじっくり観察しました。日本の養蚕製糸業への深いまなざしには、ブリュナの製糸に挑む細やかな姿勢があったのかもしれません。そして、ブリュナは富岡周辺の山並み美しいこの地を、遠き故郷ブールドベアージュの風景と重ねています。
ブリュナは政府と首長となる仮契約を結ぶと、日本人の役人尾高惇忠とともに再び養蚕地帯を旅し、この地を訪れます。養蚕が盛んで原料となる繭を調達できること、広い工場用地が確保できること、製糸用水が確保できること、動力に必要な亜炭が近隣から採取できること、地元の人たちの建設への同意が得られたことなどの諸条件が揃っていたため、富岡を建設地とします。
富岡製糸場の変遷
富岡製糸場は、国が建てた大規模な器械製糸工場で、長さが約140mある繰糸所には300釜の繰糸器が並び当時の製糸工場としては世界最大規模でした。
富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに1871(明治4)年から始まり、翌年の1872(明治5)年には主な建造物が完成し、操業が開始されました。繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりました。
外国人指導者が去った1876(明治9)年以降は日本人だけで操業されました。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場払い下げの主旨により、1893(明治26)年、三井家に払い下げられました。その後、1902(明治35)年、原合名会社に譲渡され、御法川多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の改良などで注目されました。1938(昭和13)年には株式会社富岡製糸所として独立しましたが、1939(昭和14)年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。第2次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しましたが、日本の製糸業の衰退とともに1987(昭和62)年3月ついにその操業を停止しました。
操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、2005(平成17)年7月には国の史跡に、2006(平成18)年7月には主な建物が重要文化財に、2014(平成26)年6月には「世界遺産一覧表」に記載されました。さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。
富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに1871(明治4)年から始まり、翌年の1872(明治5)年には主な建造物が完成し、操業が開始されました。繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりました。
外国人指導者が去った1876(明治9)年以降は日本人だけで操業されました。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場払い下げの主旨により、1893(明治26)年、三井家に払い下げられました。その後、1902(明治35)年、原合名会社に譲渡され、御法川多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の改良などで注目されました。1938(昭和13)年には株式会社富岡製糸所として独立しましたが、1939(昭和14)年には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。第2次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しましたが、日本の製糸業の衰退とともに1987(昭和62)年3月ついにその操業を停止しました。
操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、2005(平成17)年7月には国の史跡に、2006(平成18)年7月には主な建物が重要文化財に、2014(平成26)年6月には「世界遺産一覧表」に記載されました。さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。
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現在の富岡製糸場
現在、富岡製糸場は富岡市が所有し、関係機関と協議をしながら保存修理や整備活用等の管理を行っています。
一般公開は、ここを訪れる方々に、富岡製糸場の歴史や文化財としての価値を伝え、貴重な遺産として後世へ残すことの意義を理解してもらうことを目的とします。富岡製糸場の見学は外観見学が中心であり、外観を見てもらうだけでは115年間の操業の歴史や産業遺産としての価値が分かりにくいことから、“解説員によるガイドツアー”や“スマートフォンにダウンロードできる無料音声ガイドアプリ(多言語対応)”による解説案内を行っています。
2020(令和2)年、国宝『西置繭所』は足かけ6年にわたる保存整備工事を経てグランドオープンしました。工事は、建物内に鉄骨を骨組みとして組み、壁と天井をガラスとする、建物内に新たな空間を創出する『ハウス・イン・ハウス』という工法を採用しました。ガラスの内側には資料などを展示するギャラリーや、多目的に利用できるホールがつくられ、ガラスの壁からは、操業の歴史と労働の記憶を伝える様々な痕跡を見ることができます。保存修理と耐震補強と整備活用のための整備工事を同時に行う、新たな保存活用のあり方を提示しました。
一般公開は、ここを訪れる方々に、富岡製糸場の歴史や文化財としての価値を伝え、貴重な遺産として後世へ残すことの意義を理解してもらうことを目的とします。富岡製糸場の見学は外観見学が中心であり、外観を見てもらうだけでは115年間の操業の歴史や産業遺産としての価値が分かりにくいことから、“解説員によるガイドツアー”や“スマートフォンにダウンロードできる無料音声ガイドアプリ(多言語対応)”による解説案内を行っています。
2020(令和2)年、国宝『西置繭所』は足かけ6年にわたる保存整備工事を経てグランドオープンしました。工事は、建物内に鉄骨を骨組みとして組み、壁と天井をガラスとする、建物内に新たな空間を創出する『ハウス・イン・ハウス』という工法を採用しました。ガラスの内側には資料などを展示するギャラリーや、多目的に利用できるホールがつくられ、ガラスの壁からは、操業の歴史と労働の記憶を伝える様々な痕跡を見ることができます。保存修理と耐震補強と整備活用のための整備工事を同時に行う、新たな保存活用のあり方を提示しました。
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横田英(和田英)(1857-1929)
松代藩士の娘。入場時は15歳。富岡製糸場で技術習得に励み、のちに地元の西条村製糸場(のちの六工社)や県営長野県製糸場で技術指導者として活躍。回想録『富岡日記』は当時の富岡製糸場の様子を知る貴重な資料。
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横田英(和田英)
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『富岡日記』[写真](群馬県立歴史博物館提供)

『工女勉強之図』朝孝 画 大正15年複製(富岡市立美術博物館・福沢一郎記念美術館 所蔵)